昨日のお月さまは 生憎湿度が高くてぼやけてました
前回は自粛気味でしたので諦めていた御朱印を頂きに行ってきました
下神明天祖神社です 灯台下暗しでしょうか? ここは家から近いです
立派ですね~
日曜に大井埠頭へ行って帰りにでも来られるくらいの場所です
念願の御朱印はこちらです
神職の方とお話したらこんな事もされているそうです
567終息したら 行ってみようと思いました
もちろん自転車の御守も頂いてまいりました
元気な虎徹です
先週末に"ぽつんと一軒家"に時坂峠の"ちとせ屋"が出てたので久しぶりに行ってきました
最初に行ったのが2018年12月 2回目が2019年2月だったので3回目です
坂は短いんだけどキツイ所ですが
つづら折りやガードレールのない景色 綺麗なお花など あって楽しい坂ですよ
心配していた車で来られる方は少なく ハイカーとチャリダーが少し居ましたがミツになる様な感じではなく 良かったです
上では茶屋が開いてました ”ちとせ屋”は閉まってました
所さんと林先生の色紙も飾ってありました
またドローンで撮影している方もいました ユーチューブにアップするので観てくださいと言われました(少しして見てみよう)
ストリートビューがあったのでご確認ください
最近茶トラの兄弟は甘え上手になってまいりました 不思議ですね~ うれしい!
虎徹はダンディ~ですね
友野釜五郎の妻(芳)について 今回でとりあえず最終回です
釜五郎は明治十年(1877)7月に、たなご型幅広、刀身五寸の日本理容鋏一号を完成させ
翌十一年 それまで仮寓していた麻布永坂の旗本、江戸期の御典医 岡仁庵邸内の
固山備前介宗次(こやまびぜんのすけむねつぐ)のもとを離れて、芝田町の海岸に近い場所に世帯をもち、そこに一坪の細工場(さいくば)を設けた
さらに明治15年には、そこを引き払って、もといた、麻布永坂に近い飯倉一丁目に細工場を移転し、本格的にはさみ製作へ乗りだしたのである
(書籍 ものと人間の文化史33 鋏(はさみ) 岡本誠之 著書)による
芳さんと結婚したのですね!
芳さんは、江戸期の御典医 岡仁庵の娘です
岡家は先祖代々の御典医で、7代目にあたる岡仁庵も同じく 蘭学、儒学を修め、父の跡を継いで御維新まで殿中出仕を務めたそうです
末娘の芳は蘭学系統の近代的な西洋医学学校一期生(婦人科)を卒業されたそうです
仁庵から持参金として現在の港区区役所麻布支所辺りに三千坪の土地の権利書も持たせたそうです
明治二十五年ころ東京市にこの土地を四千円で売り 工場建設の資金に充てたそうです
写真は残ってませんが 祖母(とし)の事を思い出すと凄い人だったんだと思います
岡の桜
永坂にすぎたるものがふたつあり 岡の桜と更科のそば という歌が古くからある
大きなしだれ桜で、邸も嘉永年間(A.D.1848~1583)の江戸図面に載っているほどの屋敷 この岡の屋敷内の、むかしの侍長屋のひと棟に、謡の師匠やら易者やらと並んで、
刀匠備前介宗次が住んでいた。宗次の弟子である友野義国も、もちろん一緒で、鍛冶場もここにあった。 当時 義国は20代の青年だったそうです どう結ばれたのかは判りませんが二人とも近く住んでいたのですね!
虎徹 on Instagram: “茶トラ兄弟5月5日誕生日でした🎂 おめでとう🎊いつまでも元気でいてねー”
友野釜五郎について(直接はお会いした事は無いです)
祖母(とし)の父 祖父(周三)の師匠で義父
時は江戸時代 友野釜五郎(義国) は刀の名工、固山宗次(こやまむねつぐ)=固山備前介宗次(こやまびぜんのすけむねつぐ)の弟子でした 廃刀令後は刀剣鍛冶としての生業を失ったのち、師宗次に率いられ、一門とともに、維新政府の武器製造(海軍工厰)に参加し鉄砲鍛冶として働いていたが、鋏製作へと進んだことは刀剣師(芸術家)としての”心”かと私は思います
フランス製の散髪鋏を見て 刀を作る技術で鋏のレプリカを作ると、切れ味の良い事で売れるようになったそうです。
さらに刃の幅を広くした独自の形状を編み出して人気を博し、弟子を多く抱えるようになるそうです(祖父達です)
日本の散髪鋏の元祖、義国(よしくに)
日本の散髪鋏のパイオニアとされるのは、義国(よしくに)と立野平作(へいさく)であると記載があります
(書籍 ものと人間の文化史33 鋏(はさみ) 岡本誠之 著書)
海軍工厰に勤めたので 内燃機を学び エンジンを作っていた 母から聞いていたのは船舶エンジンでしたが、調べてみると飛行機のエンジンも作ったみたいです
この頃 友野鉄工所は麻布広尾(現在の渋谷区広尾5丁目周辺)にあった
本によると、最初の頃は鋏を製作するのに6日かかっていて 人を増やしながら生産していたので効率は悪く その後水車を用いた生産らしいのですが 東京市外渋谷村伊守川が古川へ合流する所に工場を建てたが 季節によって水量が変わるたり そんな時は人力で水車を回していた(とっても大変そうですね)
その後 麻布広尾町22番地に石油発動機を設置した工場を建て生産していた これも
燃料は食うしグリースは入手困難で苦労したそうです日露戦争後明治39年に国産の2馬力横型焼玉式石油発動機に入れ替えたり 数年後には麻布山手方面にも ようやく電気の動力線が入ることになったので三馬力の電気モータを明電舎から買って最後まで使用したそうです
こうして 明治三十年の最初の1.5馬力縦型火管式石油発動機から初めて、10年後には、本格的な焼玉式石油発動機 に切り替え、さらに電気モーターへと設備を行い はさみ製作事業のほうも、時代の流れに乗って、ますます発展の一途をたどっていったのである
釜五郎の生い立ちは、武州寺尾村に代々、徳川将軍家馬上安全の守護神、相国神社の御守役、平家(たいら)の次男に生まれ、少年の頃、新々刀の巨匠備前介宗次(びぜんのすけむねつぐ)の弟子になっのであって、つまり神職出だったそうです
友野釜五郎の事を調べていると 山田 浅右衛門(やまだ あさえもん)の事も話に出てました
母からの昔話では、刀は出来上がると試し切りをその方にお願いに行ったそうです
友野義国と言う少年が浅右衛門宅に泊まった時ポタポタと言う音で夜半目をさました。雨ではなくこれが幽霊の足音かと思うとそれっきり眠れなかった。夜が明けて雨戸を明けると軒端に吊るされた袋からどす黒い血がしたたり落ちていた。袋に入っていたのは人の肝だった。
本日はお揃いです
白の紫蘭です
川田とし は父 友野釜五郎(義国) 母 芳(よし) で 子供7人兄妹の次女です
祖母(とし)の思い出
いつも妹を大切にしなさいと言われてたな~
お琴や三味線も出来て 俳句は若い時から楽しみでいて 70才を過ぎて 西東三鬼にも教えてもらっていたそうです
今も文集として 保存していますが私には難しすぎて判りません!
子供頃に 銀座や麻布の美味しい食べ物屋さんへ連れて行って貰ったのも祖父祖母でした
白金に実家(祖母の弟の友野直二 )がまだあったので連れて行ってもらった時の思い出です
家構えは3段の石段を上ると木戸 その中にガラスの戸 土間を上がると大きな衝立が在り 右手より廊下を進むと直ぐ右手に四畳半程度の中庭(苔と小さな植木?金魚鉢?でしょうか)が在ってその奥に部屋や蔵とか
別な中庭(先ほどより大きな 植木 池?) もあったと思います 大きなコイがいたと思います
今思えば凄い屋敷だったと思います 友野直二さんは友野家の事を沢山調べていて、歴史の資料も沢山お持ちだったのでしょうが 私が小学生の頃には 亡くなって息子さんの代になったら家も記録も無くなってました
最近まではそう思っていました 家系図を調べていたら
書籍 ものと人間の文化史33 鋏(はさみ) 岡本誠之 著書に 友野直二さんの資料を基にした事が載ってました
知らなかった事が少し判ってきましたので 日記を書いています
本日の屋上のお花です だいぶ咲き始めましたよ
スズランも咲き始めました
蝶々も飛んできてました
もちろん猫達も元気です