最近家系図を調べていたら
祖父は刀鍛冶を目指し弟子入りした事について詳しく調べてみたらweb上にいろいろ載っていたので書いてみます
川田周三は埼玉県の深谷出身で川田角次郎 ヒサの子供8人兄弟の四男でした 刀鍛冶を目指して友野釜五郎(義国)へ入門 明治の廃刀令(明治9年)で刀鍛冶は廃業になったので鋏や内燃機製作も行ってい為(後に詳しく書きます) 兄弟弟子(村田 延治)が目黒製作所 メグロというオートバイメーカーを始めたので 部品製作を祖父もしていた事により
釜五郎の次女(とし)と結婚独立し 有限会社川田製作所を営む(会社の始まりで 登記は戦後です)戦前の事です
母の話だと戦前都内にハレーが3台も無い頃に乗っていたそうです
昔母の実家の隣が川田家だった事で可愛がられていたそうです 祖父の友人の紹介で父と出会って結婚し 川田家には子供がいなかったので
父も母は結婚して 養子養女になったのです
私には祖父祖母合わせて6人います
祖父の思い出
川田周三は私が生まれた年(1967)に脳出血で倒れて半身麻痺になってしまったので残念ながら 直接仕事の話は聞いたことなかったです
覚えているのは タバコ(わかば チェリー)を吸いながら 椅子に座り
テレビ放送が始まった頃 テレビが家にあって 相撲やプロレスを好んで観ていたな~とか 近所の人には粋なお祖父さんだとか言われてたな~
体が不自由だったので爪を切ってあげた事があり
普通の爪切りで切るのが良いかと思えば 喰い切りを好んでたのを覚えています
(その時には何でだか分らなかったけど 鍛冶屋だったので自分でも作った物もあったのかな? なんて後で思いました)
最初戦前は何もない時代だったので ゼロから作ったのを想像します
旋盤もベルト掛けだったし 工具(バイト)も 超硬チップをロウ付けしたり なんか楽しそうです
83才 昭和57年2月11日逝去
エピソードとして
オートバイには車輪がありその中心部はハブと言いアルミで出来ています。
アルミの材料を機械で削って作りますが 当時アルミ材も貴重な物でしたが
その削りカス(切子)も貴重だったので 引取り業者では それで家が建ったと聞いています 今だともちろん無理ですね! (私の子供の頃に引取り業者から聞いた話です)