ルーツについて 3

友野釜五郎について(直接はお会いした事は無いです)

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友野釜五郎

祖母(とし)の父 祖父(周三)の師匠で義父

 時は江戸時代 友野釜五郎(義国) は刀の名工固山宗次(こやまむねつぐ)=固山備前介宗次(こやまびぜんのすけむねつぐ)の弟子でした 廃刀令後は刀剣鍛冶としての生業を失ったのち、師宗次に率いられ、一門とともに、維新政府の武器製造(海軍工厰)に参加し鉄砲鍛冶として働いていたが、鋏製作へと進んだことは刀剣師(芸術家)としての”心”かと私は思います

フランス製の散髪鋏を見て 刀を作る技術で鋏のレプリカを作ると、切れ味の良い事で売れるようになったそうです。
さらに刃の幅を広くした独自の形状を編み出して人気を博し、弟子を多く抱えるようになるそうです(祖父達です)

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日本の散髪鋏の元祖、義国(よしくに)
日本の散髪鋏のパイオニアとされるのは、義国(よしくに)と立野平作(へいさく)であると記載があります

(書籍 ものと人間の文化史33 鋏(はさみ) 岡本誠之 著書)

 

 海軍工厰に勤めたので 内燃機を学び エンジンを作っていた 母から聞いていたのは船舶エンジンでしたが、調べてみると飛行機のエンジンも作ったみたいです

この頃 友野鉄工所は麻布広尾(現在の渋谷区広尾5丁目周辺)にあった

本によると、最初の頃は鋏を製作するのに6日かかっていて 人を増やしながら生産していたので効率は悪く その後水車を用いた生産らしいのですが 東京市外渋谷村伊守川が古川へ合流する所に工場を建てたが 季節によって水量が変わるたり そんな時は人力で水車を回していた(とっても大変そうですね)

その後 麻布広尾町22番地に石油発動機を設置した工場を建て生産していた これも

燃料は食うしグリースは入手困難で苦労したそうです日露戦争明治39年に国産の2馬力横型焼玉式石油発動機に入れ替えたり 数年後には麻布山手方面にも ようやく電気の動力線が入ることになったので三馬力の電気モータを明電舎から買って最後まで使用したそうです

こうして 明治三十年の最初の1.5馬力縦型火管式石油発動機から初めて、10年後には、本格的な焼玉式石油発動機 に切り替え、さらに電気モーターへと設備を行い はさみ製作事業のほうも、時代の流れに乗って、ますます発展の一途をたどっていったのである

 

 釜五郎の生い立ちは、武州寺尾村に代々、徳川将軍家馬上安全の守護神、相国神社の御守役、平家(たいら)の次男に生まれ、少年の頃、新々刀の巨匠備前介宗次(びぜんのすけむねつぐ)の弟子になっのであって、つまり神職出だったそうです

 

友野釜五郎の事を調べていると 山田 浅右衛門(やまだ あさえもん)の事も話に出てました

母からの昔話では、刀は出来上がると試し切りをその方にお願いに行ったそうです 

 友野義国と言う少年が浅右衛門宅に泊まった時ポタポタと言う音で夜半目をさました。雨ではなくこれが幽霊の足音かと思うとそれっきり眠れなかった。夜が明けて雨戸を明けると軒端に吊るされた袋からどす黒い血がしたたり落ちていた。袋に入っていたのは人の肝だった。

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本日はお揃いです

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白の紫蘭です