ルーツについて 4

友野釜五郎の妻(芳)について 今回でとりあえず最終回です

釜五郎は明治十年(1877)7月に、たなご型幅広、刀身五寸の日本理容鋏一号を完成させ

f:id:torakichi7:20200427211021j:plain

 

翌十一年 それまで仮寓していた麻布永坂の旗本、江戸期の御典医 岡仁庵邸内の

固山備前介宗次(こやまびぜんのすけむねつぐ)のもとを離れて、芝田町の海岸に近い場所に世帯をもち、そこに一坪の細工場(さいくば)を設けた 

さらに明治15年には、そこを引き払って、もといた、麻布永坂に近い飯倉一丁目に細工場を移転し、本格的にはさみ製作へ乗りだしたのである

(書籍 ものと人間の文化史33 鋏(はさみ) 岡本誠之 著書)による

 

芳さんと結婚したのですね! 

芳さんは、江戸期の御典医 岡仁庵の娘です

岡家は先祖代々の御典医で、7代目にあたる岡仁庵も同じく 蘭学儒学を修め、父の跡を継いで御維新まで殿中出仕を務めたそうです 

末娘の芳は蘭学系統の近代的な西洋医学学校一期生(婦人科)を卒業されたそうです

 

仁庵から持参金として現在の港区区役所麻布支所辺りに三千坪の土地の権利書も持たせたそうです

明治二十五年ころ東京市にこの土地を四千円で売り 工場建設の資金に充てたそうです

 

写真は残ってませんが 祖母(とし)の事を思い出すと凄い人だったんだと思います

 

岡の桜

f:id:torakichi7:20200427211212j:plain

永坂にすぎたるものがふたつあり  岡の桜と更科のそば  という歌が古くからある

大きなしだれ桜で、邸も嘉永年間(A.D.1848~1583)の江戸図面に載っているほどの屋敷 この岡の屋敷内の、むかしの侍長屋のひと棟に、謡の師匠やら易者やらと並んで、

刀匠備前介宗次が住んでいた。宗次の弟子である友野義国も、もちろん一緒で、鍛冶場もここにあった。 当時 義国は20代の青年だったそうです どう結ばれたのかは判りませんが二人とも近く住んでいたのですね!

 

https://www.instagram.com/p/B_3hPWkJDYV/

虎徹 on Instagram: “茶トラ兄弟5月5日誕生日でした🎂 おめでとう🎊いつまでも元気でいてねー”